2025年 の日記  



2025年2月18日 3月は個展、そして 


 個展までひと月を切りました。 そんな中、今更ながら映画ボヘミアン・ラプソディ(2018年)を観ました。クイーンのフレディ・マーキュリーの半生を描いた映画です。本や映画は受け手が勝手に自分のテーマを投影させて感動するものだと思っているのだけど、この映画に僕は自分自身のテーマを見ました。

フレディはフレディという枠を競い合ったのではない、フレディがただフレディという唯一の者に「成った」のだ。

幸い僕は消費されることなく自分の描きたいものだけ描いてここまで来れました。誰かを追従するためではない、自分という唯一の者を見つめ研いできた絵です。そこに何かの感動を得てくれる者がひとり居れば幸いなことです。


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〈画廊企画〉 酒井崇展 -ドローイング、浮かび上がるもの
会期:2025年3月10日〜22日 ※日曜休み
時間:11:00~19:00(最終日~17:00)
会場:ギャルリー志門 東京都中央区銀座6-13-7 新保ビル3F

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ボールペンの線は、一本一本が方向性を持ち、静止した絵の中に蠢くエネルギーを宿します。執拗に重ねられた線は厚みのない紙にレイヤーを与え、独特のビジョンを浮かび上がらせます。 私は対象を見ないまま白紙の上で描き始め、個人的な記憶をたよりにしながら、深層意識に眠るかたちを探っています。 故郷・長野の原風景への畏怖、そして縄文から現代へと連なる日本のものづくりの根源ではないかと感じている「美と遊び」の私なりの探究をご堪能いただければ幸いです。
(ボールペン画家・酒井崇)
 


個展、終了いたしました。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。 おかげさまで作品はすべて売約となりました。まったく売れない時期からチャンスをくださった画廊、コーディネーター、応援くださる皆様にやっと恩返しができ始めました。今後も長い目でお付き合いいただければ幸いです。




2025年7月7日 【ことの始まり ファン一号の話】


今は昔、高校時代、僕はクラスに友人が居なかった。最初なじもうとしたグループで交わされる冗談にクスリとも笑えず、最後通牒のように放った渾身のボケがまったく伝わらなかったその日一人で居た方がましだ≠ニ心に決めた。途端、肩の荷が降り、心が晴れ晴れしたのを香ばしく思い出す。

卒業とともに名古屋に出て絵を習い始めた僕は、自分の秘めてきたおかしみを絵に込めることにした。そこは受験予備校で、的ハズレな僕の絵を講師陣はことごとくスルーした。要はスベっていた。しかし僕は高校生活によって特に期待しないメンタルに仕上がっていて、自分の中で面白い絵が描けたぞと日々ご満悦であったどころか、講評会では自分で自分の絵にうけて赤面でプルプル震えているヤバイ奴だった。
そして受験が近付く冬のある日、僕の絵の隠れファンだと名乗る者が現れた。記念すべきファン第一号だった。

ことの起こりとは、そんなものである。
僕は未だその延長上にいて、まだ見ぬおかしみを共有できる人が釣れるのを、スベリ糸を垂らしながら待ち侘びているのだ。
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追伸、そんな高校時代、他のクラスに一人だけつるむ友人がいた。漫画・ゲーム・お笑い、あらゆる情報交換をした。まる一日、缶ジュース一本だけで無限に話ができた。そんな彼から先日急に、某サブカル漫画誌で賞をとったという速報をもらった。サッチー(野村沙知代)がCDを出した時と笑い飯が登場した時とボボボーボ・ボーボボの連載が始まった時に継ぐ、彼からの速報であった。




2025年7月8日 【スポーツ系小説@『して、ココロして…』】


ナメ吉はそうとうナメていた。どれくらいかというと、バニラアイスを研ぎたての包丁に突き立てて3秒以内で舐め切るくらいナメていた。彼の宿命のライバルであるマンマミーア川崎は、ナメ吉の態度をいつも苦々しく思っていた。
そんな二人の特技はボーリングで、町内会じゃ負け知らず。関東大会に出てもけっこうやれるんじゃないかと噂されていた。志の高いマンマミーア川崎は密かに練習を重ね、自宅で投球フォームのカタを繰り返した。本番でも基本に忠実に、美しく正確な投球を心がけた。その甲斐あって川崎のスコアはグングン伸びたが、ナメ吉はそんな彼をさらに2、3点上回るのだった。納得のいかない川崎はより血の滲むような努力をしたが、ある日その血で滑って転んで頭を強打した。その血まで舐めようとしたナメ吉はさすがに自分を恥じ、川崎に駆け寄った。
「して…ココロして…」瀕死の川崎の言葉を旨に、ナメ吉は何事にもココロしてとりかかる慎重で頼れる男に生まれ変わったという。

後日談−川崎は無事に退院し、もう少し肩の力を抜いてナメて生きようと思ったとさ。マンマミーア!






2025年7月29日 【移住について】


高校を卒業し長野を出た1997年以来、約30年振りに長野県民へと戻った。故郷の飯田ではないが、夫婦でいろいろ検討した結果、諏訪地方に落ち着いた。諏訪は太古からの営みのレイヤーが重なりながら今でもポコポコと顔を覗かせている非常に魅力的な地だ。諏訪湖は故郷を流れる天竜川のみなもとでもある。



鉄道路線で言うと、中央線に乗って関東平野から甲府盆地を抜け諏訪・岡谷へ至り、飯田線に切り替えて伊那盆地へ南下するラインは『富士眉月弧』と呼ばれる縄文文化が花開いた地帯でもある。私が都内の中央線カルチャーに妙に惹かれたのは土着の泥臭さと都会の煌びやかさが変な形で入り混じった「土着ポップ」さであったが、そういったカルチャーが現代に表出する奥の奥にも『富士眉月弧』のレイヤーが潜んでいるからかも知れない、そんな勝手な想像を楽しんでいるところだ。
いまこの地で毎日眺める鮮やかな夕空は妻の絵に本当によく似ていてる。子供の頃の蓼科でのキャンプにも原風景があると聞いてはいたが、なるほどすごい観察眼と表現力だ。



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都内を身軽に飛び回って自分を知ってもらう時期から、いよいよ腰を据えて絵を深める時期に来たなということで、長野に磐石な制作環境を築くことにした。古い家を買ったので、広さの制約はあるものの遠慮なくカスタムできる。
生きられる時間には限りがあり、成したいことなら後回しにすることなくさっさと始めてしまおう。壮年さらに老いやすく学なり難しだ。



▲自作のカウンター。壁の漆喰も塗りました。  






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